日本山岳会発足
1905(明治38)年10月14日、小島久太(烏水・当時31歳)が中心となり、武田久吉(当時22歳)、高野鷹蔵(ようぞう・当時21歳)、山川黙(しずか・旧姓河田・当時19歳)、梅沢親光(当時20歳)、城数馬(当時41歳)、高頭仁兵衛(式・当時28歳)らによって日本山岳会の前身である「山嶽会」が発足しました。もちろん我が国近代登山の父と呼ばれる、英国宣教師・ウォルターウェストンの示唆と推奨が、大きく働いたことは言うまでもありません。
信濃山岳研究会の発足
ウェストンが3度目の来日をはたした1911(明治44)年11月、信州在住の登山家たちによって「信濃山岳研究会」が結成されました。この「信濃山岳研究会」には、長野師範学校卒業生の矢沢米三郎、河野齢蔵、小田四十一、田中貢一らの「信濃博物学会」が母体となり、100人余りの県内在住者が集まりました。会長は当時長野県松本女子師範学校長であった矢沢米三郎で、副会長は同校の教頭だった河野齢蔵でした。
信濃山岳会への発展
1919 (大正8)年1月に「信濃山岳研究会」は、組織改革を行い、会則を制定しました。また同年7月15日には名称を「信濃山岳会」へと改称しました。昭和初期に上高地を中心とする北アルプス一帯の国立公園指定に際して、同会の活躍はきわめて顕著でした。
信濃支部発足の頃
1947(昭和22)年6月22日、「日本山岳会信濃支部」が結成されました。初代支部長には槇有恒が就任し、常任委員に百瀬慎太郎等9人を選任しました。当時の本部会費は年間30円、支部会費は20円でした。
支部報第1号の発行
1948(昭和23)年5月25日発行。同号巻頭には設立の意図について、次のように記載されている。
「支部設立に際して」
長野県下の会員が、此度の支部結成によって研究や計画や又は交友親睦の方面にも多大の便宜を得られデモクラティックな気持で運営されていく限り、山岳を手近に控えておる関係上名実共に充実したものに成長して行くであろうことは疑ありません。殊に此の日本アルプス其の他の立派な山岳に取囲まれておる立場は、単に県内会員相互の関係だけに止まらず、より広いそして直接的な関係を各方面にもつものと考えられます。私等は国土の自然を愛し、山岳を愛する者の一員として、山岳に関して惹き起る種々の問題に対し、公正と信ずる意向を積極的に働きかける立場に置かれておると思います。個々の問題毎に山岳の開発と保存との限る事柄であるとか、或は完全な山岳博物館を建設するとか、何れを取上げても困難の少ない重要なものばかりでありまして、山岳のお膝下であるだけにその処置なり報告なり計画は各方面に影響するところが大きいと思います。又欧米の風光地の如く、自然の愛護を説くことを要せず、愛護の精神が常識の水準に迄なっておる処に較べて、わが国の斯方面は、遺憾ながら考えも方針もちぐはぐな状態なので、我等としては国土百年のために微力を尽さなければならないと思います。次に今後支部より発表される研究であるとか、其の他の成果は、山岳の清新な香を豊富にもつものであろうことを期待します。そして十年二十年の後には、信濃の山岳地帯に美しい境地を作り上げるに大いなる寄与をなすものと信ずるものであります。
12ページからは第1 条から付則第14 条にわたる「日本山岳会信濃支部規定」が掲載されている。その第3 条には、7 項目の事業内容が具体的に示されている。
1.支部機関紙の発行
2.登山に関する指導並に研究
3.山小屋の建設並に管理
4.山案内人の育成並に認定
5.登山事故の防止並に救護
6. 山岳の人為的破壊に対する擁護
7.其の他登山界の向上に関する各般の事項
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